<パンナ+ラクター/パンナ視点>
それはマッカ行きの簡単な防衛の攻略なはずだった。綺麗に並べられた隊列を魔術師によって崩してもらい、防衛を一気に制圧し、さあ皇国に帰ろうとした先でまた別の部隊と衝突してしまった。連戦に続く連戦。本来なら数日で帰れるはずだった遠征は半月程に伸び、私達は漸く皇国にある仮拠点に戻る事が出来た。
遠征中、ずっとかぶっていた猫を剥がし、不機嫌オーラを存分に垂れ流しながら、さっさとお風呂に入っていったガレットさんを見送って、私は事務所を見回した。
デズーアさんのおかげで留守にしていた事務所には埃ひとつ落ちていない。出かける前と一ミリも動いていない家具の位置。まるで時間が止まっているように見える。
遠征から帰ると決まって、タイミングを見計らったようにラクターさんが応接室で出迎えてくれた。でも今はその姿がどこにも見えない。
出かけているのだろうか。
予想外のアクシデントで、帰る連絡も出来るはずもなく予定してた日から大分経ってしまった。流石にいきなり帰った先で出迎えてくれるだなんて思ってなかったけど。
いや、それならもしかして、また書斎で書類整理でもしてるのかも知れない。
ここ暫くろくにお風呂にも入れず、汚れた姿で会うのも躊躇われたが、それ以上に一度顔を見ておきたかった。
足元に擦り寄ってきたオペラに挨拶をし、何となく足音を殺しながら書斎の前に立ち、控えめにノックする。
「ラクターさん?パンナです、ただいま帰りました」
声をかけても返答はなく、恐る恐る書斎の扉を開けた。
昼間とは言え灯りもつけず、窓も締め切った部屋の中。出かける前より高くなっている書類の山の中心にラクターさんはいた。長身には手狭なソファーの上に横たわり、帽子で顔を隠して、耳を欹てないと聞こえない程微かな寝息をたてている。
「…寝てるんですか?」
中々深い眠りについているようだ。見ると、書類が所狭しと摘まれた机の上には書きかけの羊皮紙と先にインクのついたペンが投げ出されていた。
静かに近づき、無意味に手を振ってから、つい出来心で顔を隠していた帽子を取った。
伏せられた長いまつ毛に、寝ているのに固く閉じられた薄い唇。最後に会った時より肌が白くなった気がする。まるで人形のような寝顔に心配になり、顔の前に手を翳して息が当たるのを確認して安堵する。
ラクターさんはずっとここで一人で黙々と仕事をしていたんだろうか。誰と会話する事もなく、日にも当たらず、好きと言っていたお茶を啜り休む事もなく、ずっと。
広いとは言えない部屋にびっしりと置かれた本棚。窓際に置かれた大きなデスクに、それにすら収まらず床にまで浸食を広げている書類や羊皮紙の束。今寝ているソファーだって二人掛け程度だし、ラクターさんだって長身で、この部屋は落ち着いて仕事をするには十分な、多少手狭なくらいなサイズなのに。
静かな部屋で、一人で仕事をしているラクターさんを想像して、無性にここが広く感じた。
ああ、でも杞憂かも知れない。デズーアさんだってオペラだっているし、きっと
僅かに乱れた長い黒髪をすいて、それでも眉ひとつ動かさないラクターさんの額を撫でる。
「…ただいま、ラクターさん」
言葉にした瞬間、どっと足に疲れが押し寄せてくる。
まだまだ動けると思ってたけど、気を張っていただけだったらしい。
床に腰を下ろし、ソファーにもたれかかると、規則正しい寝息に導かれて私は簡単に意識を落とした。
座ったまま寝たせいか、浅い眠りの中で夢を見た。
まっさらで何も無い、明るくも暗くもないくすんだ色の空間の真ん中で、黒い何かが浮いていた。形もわからない、動いているかも知れないし動いてないかも知れない。
何かに敵対心を抱く訳でもなく、望みがある訳でもなく、何かする訳でもなく、その黒いのはそこにじっと浮いていた。ただ、それは困っているようにも見えた。
何かをしたくても何もない、何かに手を伸ばしたくても手がない、そんな感じ
私はその黒いのにそっと近づいて、逃げもしない、驚きもしないそれに手を伸ばした。
形がないらしいそれに触れると、抵抗もなくちょっと手を突っ込んでしまったが、中は意外とじんわりと暖かかった。冷たいのかと思った。
ああ、この、冷たいようで暖かい感じは知ってる。
ふと目を覚ますと、夕日が差し込む書斎の中で、先に目を覚ましていたラクターさんが私に手を伸ばして、愛おし気に微笑んで言った。
「お帰り、パンナ君」