<ラクター×パンナ IF/死ネタ>
退魔の剣が胸に刺さり、模倣した肉体が剥がれ落ち、黒い炭となって消え行く中、あの人は最後に何を言ったのだろう。
『願わくば、君のその手で逝けたら――君と共に幕引きを出来るならどんなに幸せか』
私に沢山の愛情を注いでくれたあの人が、最後に言ったたった一つのお願い。
昔のままの細い綺麗な手で、すっかりしわしわになった私の手を優しく包んで、退魔の剣をそっと手渡す彼女に、私はゆっくり頷いた。
力のすっかり衰えた腕でも、的確に胸に当てれば飲み込まれるように、受け入れるように彼女の中に飲み込まれて行った。
死の淵に、囁かれた言葉は年老いた私の耳には届かなかった。
ただ、蒼い瞳がとても優しく私を見つめていたのだけは覚えている。
ラクターと、色々なところを旅して、色々な景色を見て、色々な物を食べて、沢山冒険して、私はいつの間にかおばあちゃんと呼ばれる年齢になっていた。
隣にいるラクターが、いつまでも若いままだから意識出来なかったのね。
ラクターは、段々と白くなる髪を雪のようだとすくい、皺の増えた顔を綺麗だと言って口づけてくれた。
ふふ、傍から見たら、凄いおばあちゃん好きの孫に見えたでしょう。
子供は終ぞ出来なかったけど、私は大した病気も怪我もする事なく、背中も曲がらず、今でも自分の足で散歩できる程健全に過ごせた。
彼女を一人残す事無く、想いを遂げ、最後を見送る事も出来た。このまま逝けたら大往生でしょう。
異世界を散々旅し、最後に戻ってきたオーラムの街をゆったりと歩く。
巡りを抜けたらしい、すっかり変わってしまった街並みを眺めていると、すれ違い様に人にぶつかってしまった。体勢を立て直せずよろめくと、素早く背中を支えられ、視界いっぱいに黒が覆う。
「――お怪我は御座いませんか?ご婦人」
ふわりと漂う嗅ぎ慣れた匂いに、聞き慣れた声。でも随分と懐かしい
私をしっかりと立たせて、しわしわの手を取り、腰を屈め少し目線を下げて話す、目の前の女性。
男物のスーツをきっちりと着込み、作り物のような綺麗な笑顔で感情のない蒼い瞳を細める…つい一月前に消滅したばかりのラクターがそこにいた。
「あら、あら」
「…私の顔に何かついているかな?」
口元に手を当てまじまじと見ていると、にっこりと微笑みながら首を傾げるラクター。
彼女は契約の魔、デーモンだ。契約という概念がある限り、「契約の魔」が消滅する事はない――とは聞いていたけど。デーモンって、こんなに早く生まれるの。
「ふふ、御免なさい。知り合いに似ていたものだから、つい」
「私は貴女とは認識がないので、他人の空似だろうね。兎に角怪我もないようで何よりだ。」
取っていた手を優しく下ろし、よろめいた際に落ちた肩掛けを拾い、土ぼこりを軽く払う。
「少し、考え事をして歩いていたんだけどね…申し訳ない、汚れてしまったね。クリーニング代は支払おう」
「いえいえ、構いませんよ。私もぼんやり歩いていたから」
「しかし……ふむ。」
ちらり、と一瞬。私を値踏みするように目を動かす。
契約に繋がる何かを感じたんだろうか。
彼女はにっこりと営業スマイルを作って、私に手袋をはめたままの手を差し出した。
「それでは、お茶の一杯でもご馳走させて頂こう。迷惑をかけたお詫びだ。勿論、お時間が宜しければ、だが…如何かな?ご婦人」
完璧な愛想笑いに感情の籠ってない口説き文句に、思わず昔の事を思い出して笑う。彼女とラクターは別人だ。それでも、まるでラクターの子供の頃を見ているようで、愛おしくて。
私は微笑み返してそっと差し出された手に指先を重ねた。
「はい、とても素敵。この先に珈琲が美味しいって評判の喫茶店があるの。そこはどう?」
「どこへなりとも。では、行こうか」
手を支えられ、背中に手を添えられ歩いて数十分の喫茶につく。
皇国と央国の建築技術が合わさった不思議な作りの、古い建物だ。カランカランとドアベルの音が心地よく鳴ると、穏やかなジャズの音色と共に珈琲の良い香りが空気に乗って漂ってくる。
長身でスーツの若い女と老女の組み合わせが珍しかったのか、少しマスターに不審な目を向けられつつ窓際の端の席に案内される。
席につき他愛もない会話をしていると、暫くして頼んだ珈琲が目の前に置かれた。
珈琲にミルクと砂糖を少量入れ口を付ける私を見て、真似をするようにカップに口を付ける彼女。
「味はどう?」
「…珈琲と言ったかな。良い香りだね、美味しいよ」
一口飲み、少し目を見開いた後香りを楽しみもう一口カップを進める。昔のラクターも、珈琲や紅茶の香りは気に入っていたようだから、彼女にもお気に召したようだ。
私の淹れた珈琲を美味しいと、目を細めて言ったラクターを思い出し笑う。
味が分からなかったラクターは私と出会い、味を覚えて、美味しさを共有して、最後は私の代わりに美味しい珈琲を淹れてくれるようにまでなった。
でも…彼女は、これからどうなるんだろうか。
「どうかしたかな」
「…いえ、何も」
「何かお悩みかな。私でよければ、話し相手くらいにはなるよ」
自分のカップを少し横に退け、テーブルの上で指を組み、まるで親身になっているような態度を取る彼女。ラクターが私の前では随分取らなかった、契約をする時の演技。
私も同じようにカップを置いて、首から下げていた指輪に触れた。
銀がくすみ、蒼い石に僅かにヒビが入っているそれ。貰ったその日から今まで、肌身離さずつけ、共に年月を重ねてきた物だ。
「一月前にとても大事な人が亡くなってね」
「旦那、かな」
「ふふ… ええ、まあ。その旦那が貴女にとても良く似ていてね。少し懐かしくなったの」
「……随分と年齢差のある夫婦だったようだね」
少し複雑そうな顔をする彼女を見てくすくすと笑う。意外と顔に出やすいところは、昔も変わらないらしい。
笑う私に首を傾げた彼女は、まあいいと気を取り直してまた作り笑いに戻った。
「どれだけ似ているか知らないがね、先程も言ったように、他人の空似というやつだ。」
「ええ、知ってますよ」
「旦那にもう一度会いたいかね」
すぅと見透かすように目を細め、獲物に狙いを定める蛇のように、囁く彼女。
私は笑って小さく首を振る。
「いいえ。私はどうせ老い先短い、急がなくってもすぐ会いに行けるから。」
「む?…ふむ、死後の世界というやつだね」
選択を間違えたかな、と言いたげに首を捻り、口元に手を当てる。
多分ね、と付け足すとさらに疑問を深めたように目を瞬いた。
私はお話に出てくるような天国や地獄は信じてない。死んだら消えて終わりなんでしょう。
でもラクターと同じ末路というなら、それも別に良いと思える。
「では、何にお困りなのかな」
「うーん、強いて言えば…話し相手がいなくなって困ってる…かな」
「話し相手」
「そうだ。ご縁次いでに、少し私のお願いを聞いてくれませんか」
暫く、私の話し相手をしてくれません?
困惑の色を浮かべる彼女ににこにこと笑いかけると、ややあって蒼い目が伏せられ、いつものペースを持ち直した彼女は演技がかった仕草で手を開いた。
「ああ、宜しい!無論、無償契約とは行かないが…そうだね。話し相手をする度に一杯、珈琲をご馳走して貰おうか」
「ふふ、そんな事でいいの?」
「飲み物にしろ食べ物にしろ、私には刺激のあるものは貴重なんだ」
手を組み直しにっこりと微笑むと、契約成立だと一言呟いた。
その日から、この喫茶で彼女と待ち合わせをし、他愛のない話をするのが日課になった。
話せる時間は彼女が頼んだ珈琲を飲み終わるまでの間。
元々珈琲を水分補給ではなく嗜好品として楽しんでいた彼女は、それこそ都合によりペースはまばらだったものの、気が向けば半日かけて珈琲を飲み干し、その間私とのお喋りに付き合ってくれた。
珈琲に飽きたら趣向を変えて紅茶を頼み、気まぐれに「別の店に」と少し遠出なんかもした。
日差しの柔らかな天気の良い日は、公園で移動販売しているカートから珈琲を買ってベンチで肩を並べて飲んだ。
移動販売で売っている珈琲は香りも薄く安い豆を使っていたため、彼女はいつもより飲み干すのに時間をかけていたっけ。
ある雨の日、待ち合わせに使っていた喫茶に行くと、どうやらお休みのようだった。
扉には次の開店日の日付が書かれた張り紙を張られ、固く閉ざされている。
傘を折り畳み、雨避けに身を隠して曇り空を見上げる。そろそろ肌寒くなるこの季節にこの大雨。冷えた指先を摩りながら、彼女の事を思う。
ラクターも雨は苦手だったけど、彼女は大丈夫だろうか。時間を指定した訳でもないのに、毎日同じ時間にはいる彼女の事だから、天気も関係なく顔を出そうとするでしょう。
この喫茶に現れなければ珈琲を奢られ話し相手をさせられることも無いのに、彼女も律儀な子だね。
雨音を聞きながら、速足で街中を歩いて行く人影を見送って、どれくらい経っただろうか。
今頃ならとっくに顔を出しているはずなのに、彼女の姿が見えない。
流石にこの大雨だ、やっぱり来るのをやめたのか、急用が出来たのか。それとも大きな契約に繋がらないと見限ったか。
それも仕方のない事でしょう。十分相手もして貰ったし、そろそろ彼女を拘束するのも終わりにしましょう。
雫の滴る傘を開こうと目線を下げた瞬間、足元に丸い影が出来た。
「待ったかな」
スーツの肩を僅かに濡らした彼女がこちらに傘を傾けて立っていた。
「…いらっしゃったんですね」
「すまないね、少し前の仕事が長引いてしまったんだ。貴女は、何故店先で――…ああ」
扉の張り紙を見て頷く彼女に、懐からハンカチを出し、肩の雫を払ってあげる。
呼吸こそ乱してないが、急いで来てくれたのだろう。
僅かに崩れたスーツを直し、ずれていたネクタイを締め直し―――持っていた紫の宝石のついたネクタイピンを挿して、ぽんと肩を叩いた。
「これは?」
「私が持っていても仕方がないから。貴女に差し上げます。良かったら貰って」
「それはそれは。有難う。ハンカチとまとめて、何か礼をしないといけないね」
濡れたハンカチをするりと奪い取って、猫のように笑うと自然な動作で背中に手を添えた。
「すっかり身体が冷えてしまったね。どこかで暖まろう」
「…ええ」
大き目の黒い傘を私の方に傾けて、エスコートをしてくれる彼女。
ラクターがいつだか教えてくれた、私の瞳の色と合わせて買ったというネクタイピン。消滅したラクターが唯一落としていった物だった。
彼女に渡したのは単純に、このまま持ってるのも捨てるのも勿体なかったからなのだけど
それでも彼女の胸元で紫色の宝石が輝いているところを見ると、どこか満たされるのを感じた。
きっと子供がいたら、こうして思い出の品を与えただろう。
大雨の中長時間立っていたせいか、次の日、私は体調を崩していた。寄る年波には勝てなかったらしい。
気だるい身体を何とか起こし時間を見ると、とうに待ち合わせの時間を過ぎていた。彼女はきっと、時間通りに来ているだろう。
時代が進んでもブリアティルトに遠方の人と即座に連絡を取れる手段はなかった。しかし、あの子の性格上日が沈むまでは喫茶店で粘り続けるだろう。
何とかふらつく足で立ちあがり、身支度を整えようとしているとチャイムが鳴った。
「こんにちは、お邪魔するよ」
「…あらあら、わざわざ遊びに来てくれたの?」
ありがとう、と力なく微笑む私を見て、彼女は僅かに眉を顰めた。手に紙袋を抱えたまま玄関に上がり、私の肩に手を回しよろめく私を支える。
「やはり、昨日から不調そうだったが…お加減は如何かな」
「大丈夫、少しだるいだけだよ。私ももう年だから、仕方ないね。…それよりごめんね。折角来てくれたけど、珈琲をご馳走してあげられないね」
「それなら心配ない」
リビングに移動し、私をソファーに座らせると抱えていた紙袋の中から厚いカップに注がれたホットコーヒーを二つ取り出した。
どうやら立て替えておいてくれた、という事らしい。その日は家で暫くお喋りを楽しんだ。
数日体調不良が続いたが、それでも彼女は毎日ホットコーヒーを抱えて家を訪ねて来てくれた。
起き上がれない程具合の悪い時も、隣に居て声をかけてくれた。
今日は久々に体調が良い。節々も痛まないし、出かけられそう。
それでも念の為、大事を取って家でお茶をすることにした。いつまでも買って来て貰うのも申し訳ないので、今日は私が珈琲を淹れる事にした。
ソファーの上で珈琲が出てくるのを大人しく待っていた彼女が、ふと何気なく尋ねる。
「しかし、この家は随分年季の入ってるね。デザインも古いし、何より貴女一人には大きい」
そう、今使ってる家は昔オーラムに住んでいた頃に立てた事務所だった。
異世界に行ってからも売られ、色々な人に利用されながらも残っていたようで、たまたまその時空き家だったここを買い取って住み着いた。
ガレットさんもオペラも、そしてラクターすらいなくなったこの家は確かに私一人には大きい。
「そうだねぇ。でも、一番落ち着く場所だからね。昔、ここで事務所をやってたの」
「事務所?何のかな」
「うーん…仕事斡旋から護衛、モンスター討伐、公証人を請け負ったり…何でも屋、かなぁ」
ふぅむ、と興味あるんだかないんだかわからない反応をしながら、漂わせていた視線を戻す彼女。
そうこうしているうちにカップたっぷりに黒い液体が注がれた。見計らったようにキッチンに顔を出し、トレーにカップを置くと器用に片手で持ち、空いている手で私をエスコートしソファーを勧める。
大人しく腰を下ろし、トレーから彼女の前にカップを置いた。
「はい、どうぞ。召し上がれ」
「とても良い香りだ。では、頂こう」
そういえば、彼女に私の淹れた珈琲を振る舞うのは初めてだったね。
様子を伺っていると、カップに口を付けた彼女は一口珈琲を口に含むと、少し味わってから喉に流し込んで伏せていた瞼をゆっくり開いた。
「…ああ、美味しい。」
どこか困惑しているような、ほっとしているような顔で目を細めて彼女は呟いた。
「これは何の豆を使っているのかな」
「貴方があの店の珈琲を気に入ってたようだからね、お店に頼んで同じ豆を買ってみたの。気にいってくれたみたいで何より」
「…ああ。不思議と、とても美味しいよ」
その日彼女は珍しく珈琲をおかわりして、いつもより長くお喋りに付き合ってくれた。
彼女にも、食べ物を食べて「美味しい」と感じる事を幸せと思える時が来るのだろうか。
次の日、目が覚めると彼女が既に家に来ていた。
瞼を開いた私に少し驚いたような表情をした後、微笑んで細い綺麗な手で私の顔にかかった髪を払う。
「…ああ、遊びに来てたの。おはよう」
「ノックをしても返事がないのでね、勝手に上がらせて貰ったよ」
珈琲、淹れてあげなきゃね。そう言って起き上がろうとするのに、肩に全く力が入らなかった。
彼女は構わないよ、と軽く私の肩を押さえ寝かせると、僅かにずれた毛布を肩まで上げた。
「今日は、お喋り付き合ってくれないかな」
「目が覚めたらいくらでも相手をしよう。その時、また珈琲を淹れてくれればいいさ」
ベッドの横に膝をつき、帽子を取ると弱弱しく上げた私の手を取る。
骨も筋肉も細くなり、さらに小さくなったしわしわの手は、すっぽりと彼女の綺麗な手に包まれてしまう。
彼女は、私が目が覚めるまでここにいてくれるつもりみたい。
なら安心して眠ろう。
手から伝わる温もりに微睡み、私はゆっくりと目を伏せた。
「…ああ、そうだ。君には、このネクタイピンの礼をしなくてはいけないね。
―――契約召喚、幻惑の魔術師――」
彼女に、良い夢を。